UKトピックス

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BBCニュースサイトより、注目のトピックスをお届けします。

中国を傍受したイギリスの若者たち

Listening to China

中国語コースに選抜される

 1955年から6年間、イギリスは若者に対して極秘に中国語教育を施し、スパイ活動のため極東に派遣していました。今、ようやくその事実が明らかになったのです。
 それは、最も野心的な卒業生だけが夢想するような冒険談です。ある日上官から呼ばれ、守秘を誓わされ、外国語の特訓を受け、そして異国の地に派遣されるのです。
 しかし、1950年代のイギリスで義務兵役に入隊した300名余の新兵にとって、これは決して冒険漫画の中の話ではありませんでした。
 現在70歳代か、その年代に近づきつつある男性にとって、それは人生を変えてしまうほどの経験であったばかりでなく、オックスフォード、ケンブリッジ、リーズ、エジンバラにとどまらず、米国、カナダやニュージーランドの大学にも一群の中国語教師を派遣するという副産物を遺すことにもなりました。
 物語は、世界がまだ資本主義と共産主義とに分裂していた時代に始まります。中国で毛沢東主席が実権を握ったことにより、イギリス領である香港を極めて脆弱な、しかしまた突如として戦略的に重要な位置に置くことになりました。
 イギリス政府は、信頼できる要員を香港に配置して、隣国でありながら固く扉を閉ざした中華人民共和国から流れてくるラジオ放送を傍受する必要があると考えました。問題は、何人のイギリス人が実際に中国語を話せるか、でした。
 ナイジェル・ウェストという偽名で諜報の歴史に関する著作もあるルパート・アラソンさんによると、結局、イギリス政府は、一般人の他に、18歳以上の健康な男子なら誰もが入隊しなければならない義務兵役の兵士の中から選び、中国語を訓練することになりました。 義務兵役兵は、「巨大な、事実上、無尽蔵の人材供給源であり、彼らは、好むと好まざるとにかかわらず、2年間は兵役義務のある若者たち」でした。
 義務兵役兵の中にはマレー半島、朝鮮、ケニア、キプロス島などの戦場に送られた者がいる一方で、聡明な新兵には、語学(多くはロシア語)の特訓により異なった航路が用意されました。
 それにしても、中国語を話す隠れた才能を、どうしたら発掘することができるのでしょうか。その選考過程はどこかなぞ解きゲームのようなところがあり、この外国語を習得するのにどのような才能が一番適しているのか、見たところ誰にも解らないようでした。そこで、ケンブリッジ大学に進学するつもりの古典語科(ギリシャ語、ラテン語)の学生が、会計学や芸術を専攻した新兵と机を並べることになりました。
 多くの候補生にとって、選考は青天の霹靂でした。他の新兵と一緒に行進の訓練をしている時、一般教育課程のフランス語を修了した者はいないか、と訊かれて手を挙げたばかりに中国語コースに選抜された人もいました。
 レグ・ハントさんが他の2人の仲間と教育担当士官に会いに行った時のことを語っています。彼らが教育担当士官の部屋に入って行った時、彼らはロシア語を勉強するつもりでいましたが、担当士官から、これから始まろうとしている中国語コースに移る気はないかと訊かれました。「私たちは即座に、『はい!』と返事をしたものです。そしてその瞬間、私たちの人生が変ったのです」。
 マイク・ウォーレスさんは自分から進んで応募しました。当時、彼の恋人(後に夫人となる)がチェルテナムにいて、彼女のそばにいたいばかりの選択でしたが。
 新しい語学要員たちは中国についてほとんど何も知りませんでした。また、彼らのほとんどが中国語を聞いたことすらなかったのです。ともあれ、厳格な守秘を宣誓して授業が始まりましたが、場所は大抵、中部地方のワイソール、ブリストル近郊のパックルチャーチ、ドーセットのワース・マトレイバーなど、人里離れたイギリス空軍のキャンプでした。


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一般の義務兵役とまったく違う

 デヴィッド・マクマレンさんは後年ケンブリッジ大学の中国語教授になり、双子の兄弟ジェームズさんもオックスフォードで日本語を教えましたが、当時彼らが習った缶詰方式の授業が、今にして思うと「語学教師の夢」だった、と彼は言っています。
 「最初の2週間、音と抑揚を正確に大きな声で徹底的に練習しました。今の学生に同じことをしようとしても無理です。学生を缶詰にするわけにはいきませんからね。私たちが習ったやり方が実はとても良い方法だったのです」。
 しかし、規律というものは相対的なものです。語学講師の1人で、第二次大戦中、爆撃司令官だった空軍大尉パディー・レインさん(87歳)は、学業成績の優秀な語学コース組は、「普通の義務兵役兵とはまったく違っていた」と言い、比較的楽な軍隊生活を送ることができたようです。
 「『髪を刈ってこい』とか、そんなことは一切言われませんでした」と彼は回想しています。
 授業は丸1年続いた後、生徒たちはコース毎に順次、香港に飛びましたが、移動の中継地を見ると、トリポリ、ローマ、イラク、カラチ、シンガポールなど、羨ましくなるような地名が並んでいます。
 香港は1950年代のイギリスの若者にとって驚きに満ちた体験でした。「ここでは店が閉まるということがないのかと思いました。昼夜関係なく、通りはいつも混雑しているようでした。食べ物屋を探して路地を往くと、どんな恐ろしげな病気でも治すという薬屋の看板がかかっていて、それがまたぞっとするような色で描かれていました。何もかもが珍しくて、わくわくするような素晴らしい時代でした」とマイク・ウォーレスさんは思い出を語っています。
 いよいよ彼らは任務に就く時がきました。ラジオの前に座り、ヘッドホンを着け、中国語で聞こえたことはすべてメモするよう命じられました。24時間絶え間なく傍受する必要から、シフトは長く、ときに退屈なこともありました。とくに、自分たちの傍受している内容の重要性が解らないのですから、なおのことです。
 しかし、イギリス公文書館で公開されている文書、それに関係者が収集した資料のおかげで、彼らが傍受していたのは、中国空軍の動静と香港を離発着する中国機の交信であったことのほか、頻繁に発音される四つの漢数字が1組で一つの漢字を意味していたことなどが、今ではわかっています。
 また、傍受内容のメモはシフトの交代時に上官に提出することになっていましたが、それがどう取り扱われていたかについては、彼らには知らされていませんでした。どうやら、それは現地で情報価値を評価し、豪州と米国の諜報部門と共有していたようです。


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香港ビクトリア・ピークの巨大アンテナ

 中国語の授業が専門用語や数字を重視した集中方式だったおかげで、生徒の多くは任務がそれほど厳しいものではないことに拍子抜けするほどでした。マイク・ウォーレスさんが言っています。「中国人の中にはとてもゆっくり、はっきり発音してくれる人が何人かいて、私たちのために交信してくれているのかと思ったほどです」。
 ジョン・ノリッシュさんは、中国側は事態を把握していたはずだと確信しています。なにしろ、香港で一番高い山の頂上(ビクトリア・ピーク)に巨大なアンテナを張って陣取っていたのですから。そして香港の多くのバーでの体験が、そのことを裏付けてくれるように思われます。
 「ビールを注文すると、店員がヘッドホンを耳に当てる真似をして、こう言うんですよ。『あなたたち、ピークで(勉強を)やっているの?』とね。『違う、違う、違う』と私たちは答えましたが、すっかりお見通しでしたね、あれは」。
 私が取材したかぎりでは、冷戦時代に自分たちの遂行した任務がいかに重要であったかと主張する人は誰一人いませんでしたが、ナイジェル・ウェストさんが語るには、自分たちの任務は、丹念に中国軍の日常活動を記録し、その結果、一つの行動パターンを掴む上で欠かせない作業だったのであり、そうすることによって、例えば軍の大動員が行われるとか、いったん変事があれば、すぐに異変を察知することができたはずだった、とのことです。
 共産主義ブロックに対する膨大な諜報活動の中で、義務兵役兵の果たした貢献度を測ることは不可能でしょうが、ともあれ、香港での任務が彼らの人生に与えた衝撃については、疑いようがないでしょう。
 当時結ばれた絆は今日までずっと持続していますし、関係者の多くが、インターネットの助けを借りて、連絡を取り合ったり、親交を新たにしたりしています。同窓会も年を経るに従って盛会を重ねており、例えば第5組の場合、今年予定している同窓会には30人を超える参加を見込んでいます。
 多くの卒業生はその後も中国語を勉強したり、教えたりしていますが、そうでなくとも、後年、仕事の関係で中国語を役立てている人もいます。さらに多くは、そのまま諜報部門の道に進みました。
 また、除隊後、一言も北京官話を口にしたことのない人たちもそれぞれに、イアン・フレミングの小説顔負けの「青春冒険物語」を持っているようです。

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