ようこそアメリカンパイ!――再び帰ってきた古きよきアメリカ食文化
食べ物というより燃料
アメリカでは国民が脂っこいハンバーガーを離れ、良質のローカルな食品を熱心に求めるようになったことを大歓迎している、とサイモン・スキャーマ氏は言います。
もし、イギリスで人々にアメリカンフードをどう思うか質問したら、決まって、マハトマ・ガンジーのように、面白がっているような顔をすることでしょう。ガンジーは、西洋文明についてどう思うかと聞かれ、「それはとてもよい考えかもしれません」と答えた時、そのような表情をしたと言われています。アメリカンフードについても同じことが言えるのではないか、と多くの人が思っています。
察するに、大方の欧州人にとって、それは食べ物というよりも燃料といったほうがよいように思われます。ドライブスルーの店で車のエンジンをかけたまま口に放り込むようにして食べるのがハンバーガーとフライドポテトであり、あるいはまた、空港で、まるで孤島に置き去りにされたような旅行者が、早くフライトボードの「遅延」というサインが消えて、デトロイトへの乗り継ぎ案内が表示されないかと気を揉みながら、ガツガツ食べるのもハンバーガーとフライドポテトです。
空港のコンコースでは、大勢の人が人間用の航空燃料を求めてとぼとぼ歩いています。しばらくしてケチャップで汚れた1軒の店を見つけて、キャスター付きのスーツケースを立てかけます。その辺りには揚げ油の匂いが立ち込めています。うまそうだ。
問題はそれからです。とりあえずもう何でもいいと思ってサラダか、またはさらに悲惨な、季節のフルーツを注文したとしましょう。ほんの束の間ですが、これらの供物、というのはグリーンサラダとぎょっとするほど青黒いプチトマトや蛍光塗料を塗ったような角切りのパイナップルのことですが、実際、早く口に入れたいと思わせる何か強烈に欲望をかきたてるものがあります。そこで早速、口に入れます。それが大変な間違いでした。
その時の気持ちはちょうど、歯医者で口を大きく開けて、局所麻酔のノボカインを打たれた後のようです。まったく何も感じません。どうも何か、舌とのどのあたりにごろごろする物があるのですが、それが何であるか、どうしても想像がつかないのです。
舌に張り付いている紙のようなものは植物だったのでしょうか。それにしても、このネバネバしたピンク色の塊がメロンだったとは恐れ入ります。とにかくごくっと飲み込むしかありません。他に始末のつけようがないし、ここは何と言っても公共の場所ですから。
人間向けの飼葉桶かと言いたくなるような、こうした店ではスピードが問われます。19世紀にアメリカを旅した欧州人は、アメリカ人が川船や町の居酒屋で分厚い血の滴るビーフステーキを鋸のようなもので切り分ける光景を、怯えたような目で見ていたものです。とりわけ外国人の目に奇異に映ったのは、アメリカ人の粗野な食べ方が、欧州人にとっては食事を社交の場の一つとしている行為、すなわち会話を妨げているということでした。
食事は喜びよりも仕事のための営みだった
アメリカ人の食べ方は、身体的欲求を満たすという機能に相応しく、おおむね迅速でもの静かです。よほど上流の社交界でもない限り、食事は喜びというよりは、仕事のための営みでした。今でも、ちょっと作業(食事)の手を休ませていると、慇懃な給仕が、「まだ召し上がりますか」と聞いてきますが、その時、食べるという意味で、「ワーキング(working)」という言葉を使います。また、小さな女の子が綺麗に皿を平らげると、誇らしげな親は、「よくやったね(good job)」と言って、褒めるでしょう。
確かにテーブルにも喜びはあったのですが、それはメインディッシュを食べるという大変な仕事を片付けてから初めて得られるものでした。その喜びとは、何はさておき、パイでした。ステーキとインゲンではなくて、フルーツでした。ただしパイの具は、アメリカ人の愛国心の象徴のように思われているリンゴに限ることなく、自分の田舎で採れたフルーツも喜ばれました。ニューイングランドの北部で採れる小粒で色の濃いワイルドブルーベリーは、紫色の皮にうっすらと霜が降りたように青白い粉がふくと摘みごろです。深南部の諸州では甘く瑞々しい桃が名物です。
鞍ずれのした衣料品の行商人、駅馬車から降りたばかりのいんちき医者、汚れた襟を着け、さんざん拳で痛めつけたような祈祷書を手にした旅回りの説教師、牛泥棒にカウボーイ、気取り屋と卑劣漢…誰も彼もフォークひと切れのパイさえあれば、優雅な気分に浸れたものです。
さらに好ましいのは、パイを丸ごとテーブルに出してもらうことです。そのパイは、ネバダ州の猟師の娘である私の妻の言うことが正しければ、熊の脂を使って焼き上げており、ふわっと膨れたパイ生地にナイフを突き刺した瞬間、湯気とともにクローブの甘い香りが漂い、思わず身を乗り出すことでしょう。
ひと切れ口に入れたとたん、失われたアメリカの少年時代に連れ戻された思いがします。お母さんが、粉まみれのエプロンで手を拭きながら、赤く燃えたオーブンのそばにいます。折しも裏庭から、ヒッコリーの枝に止まったホイッパーウィルヨタカのさえずりが聞こえます。パイがオーブンから取り出されると、慈しみの心が台所を満たし、世界はすべて正しい、という気にさせられます。
しかし、この一文は失われた古きよき時代のアメリカ式食文化への挽歌ではありません。現に、ニューヨークのダウンタウンに結構なサワークリーム・アップルパイを食べさせてくれる店があります。が、そんなことよりここで私が言いたいのは、素晴らしいアメリカンフードが、一旦は確かに忘れられたかもしれませんが、再び戻ってきたということです。
しかし、客を平気でペテンにかけるような店でそれを求めても無駄です。例えば、こんなシーザーサラダを出すような店です。ボール一杯のしおれたレタスに段ボールかと思うようなクルトンがほとんど気付かれないほどしか入っていない、しかもシーザーサラダには付き物の生玉子の黄身とかたっぷりのアンチョビ、そして気前よくすりおろしたフレッシュ・パルメザンチーズなどはどこを探しても見当たらない。
南部一番のバーベキュー・チキン
お勧めは、地元の人が、秘伝の味をしっかり守っていると保証する本物の店です。数年前、私はテキサス州ヒューストンの黒人街で、南部で一番と言われるバーベキュー・チキンを求めて辛抱強く待つ人たちの列に並んだことがあります。店は道端の掘立小屋そのもので、なるほどあそこに秘伝のレシピを秘めているのかと納得させられるような巨大な胸をしたバーベキュー屋のおばさんが、店を仕切っていました。
客は、油でべとべとした「ダーティーライス」(アメリカ南部の名物料理)とアズキにコラード(キャベツの一種)の若葉を添えたバード(鶏肉などを薄切りにして詰め物を巻き、煮込んだ料理)を紙トレーに入れて持ち帰るのです。しかし、バードはひとりでにくずれるほどジューシーで、いたずらに冷ますしか能のない人間と見限られないうちに、食べてしまおうかという誘惑に駆られます。
私が泊まっていた高級ホテルに帰ってロビーを歩いていると、身なりのよい紳士淑女が、刺激的な匂いを放つ紙トレーを手にした私を通すために、紅海の水が割れるように、道を開いてくれました(実際、バードの煮汁がコーポレートカラーの大理石の床にこぼれ落ちました)。客の半数は怯えたように後退りし、半分は身を引きながらも、それにしてもおいしそうだな、という表情をしていました。しかし、私は到底、希望者にサンプルを気前よくお配りするような気分ではなく、丸焼きの鶏肉と秘伝のタレを持って一刻も早く一人で部屋に帰りたい一心でした。
アメリカ料理の歴史には、文化的にも料理学的にも、常に大きな二つの流れがあります。移民と家族農場の牧歌的伝統がそれです。合衆国を支えるこれら2つの生命力がそれぞれに繁栄し、画一化を拒んでいるとすれば、それはそのままおいしい食べ物についても言えることです。大敵は、ウォーターポンプで膨らまされた胸肉が足の上に載っているだけのような、抗生物質漬けの家禽を生産する工場飼育です。
しかし、エスニックフードと小規模な家族農場は、予想に反して、生き残ったというだけではなく、長年、スーパーマーケットの真空パックされたチーズに対する対抗手段として期待された以上の健在ぶりを示しています。大都市では、ベトナム人やウズベキスタン人のような新しい移民の波が、独自の食品市場を形成しています。
地域の農家売店は、旬の農作物を直接消費者に届けることによって、人気を呼んでいます。ニューヨーク近郊のハドソンバレーでは、ちょうど今頃、露地物のニンニクの芽やゼンマイ、アミガサタケなどを購入することができます。サセックス出身で、ニューヨーク州北部で農場を営むリチャード・ハリソンさんは、春から11月まで、毎週、ウサギや豚、ラム、そしてトリ本来の味のするチキンなど、自分が手塩にかけた肉類を市場に持ちこみます。
喜んで食べてくれる客がいるうちは決して諦めない
お父さんに似て、金髪で骨太そうな体格のリースさん(11歳)と姉のグレースさんが、市場で自分たちが持ち込んだ製品を販売しています。カウベリー・クロッシングから来たハリソン家の店の隣では、ソフトタイプとハードタイプ、フレッシュタイプと熟成タイプなど、種類を問わず西半球で一番おいしいチーズと、そのチーズを乗せて食べる生地の緻密な、黒い、ガーリック入りのライ麦パンを買うことができます。
これぞまさしく企業化農業の専制から奇跡的にまぬがれたアメリカンフードです。そして私たちはどうかすると辺鄙な場所で、絶望を跳ね返してくれるような料理に巡り合うことがあります。私がそんな料理を思い出したのは、本年4月5日、ウェストバージニアで起こったメタンガス爆発のため、29人の炭坑夫が死亡するという痛ましい非報に接した時でした。
何年か前、石炭産業の破綻により伝統ある地域社会が根底から破壊された町をいくつか撮影したことがあります。廃屋が通りに崩れかからんばかりの町でしたが、私たち取材クルーは七面鳥とスイスチーズのサンドウィッチくらい口にできればいいかと思いながら、一軒の手ごろなカフェの前に車を停めました。私たちを待っていたのは、女性オーナーからの思いがけない歓迎ぶりでした。彼女は、誰か店のドアを開けて、サンドウィッチなんかではなく、きちんとした食事を注文する客が来ないものかと、来る日も来る日も、待ちわびていたというのです。
彼女はギリシャ系で、私たちの前に並べられたのはじっくり焼いたラム、バクラバとカタイフィ(いずれもウォルナッツ、砂糖、シナモン、蜂蜜などを使ったギリシャのデザート菓子)でした。彼女は銀行との交渉や、店と自宅が二度も被害を受けた土石流、彼女の周辺で多発した肺気腫や失業などについて、苦労話を語ってくれました。でも、決して諦めません、と彼女は言いました。まだこうしてラムやカタイフィを作ることができ、私たちのように喜んで食べてくれる客がいるうちは……。
「私、とても嬉しい」と彼女は言いました。「私、本当に嬉しい」。突然、パイの上に涙がこぼれ落ちました。私たちも同じくそうでした。
